
100年続く鍛冶屋の技術で宇宙産業へ参入 高い技術をオープンにしてつながることが飛躍の条件
ミクル・プランニング株式会社
代表取締役
永川 祐三 / Yuzo Nagakawa
現在、私と数名のメンバーで運営しているミクル・プランニング株式会社は、社会・地域貢献活動とグローバル対応を軸に、大手企業・団体向けの広報・コンサルティング業務とプロデュースをおこなう会社です。
会社創業は、1981年創立の株式会社AV Project という企画・制作会社がスタートで、国際会議や大型展示会出展の企画・プロデュースから、プレゼンテーション映像、ビデオ制作など、企業の求めに応じて、主に販促・広報業務を手がけていました。取引先は日本コカ・コーラ、資生堂などのグローバル企業がほとんどで、トヨタ自動車とは35年以上の付き合いになります。
余談ですが、「トヨタさんは超国際企業、ウチは超極細企業、小粒ながらもピリリと辛い」のキャッチフレーズは未だに健在です。
36歳の時に脱サラして会社を設立して以来、ありがたいことにヒトとヒトとのご縁から大手企業のマーケティング部門を中心に仕事依頼が途絶えず、40歳代後半には社員を60人ほど抱えていました。企業ごとに求められるクリエイティブ業務を、手を替え品を替えこなすのは、知的サービス業ならではの醍醐味はありましたが、依頼される案件を片っ端から引き受けていたこともあり、スタッフも私も多忙を極め、運営コストもどんどん膨らんでいく中で、「ヒトにとって会社って何なんだろう?」と考えるようになりました。
そんな折、尊敬する経営者から「会社なんてものは思いっきり大きくするか、思いっきり小さくするかのどっちかだよ!」との助言を受けたことをきっかけに、会社規模の縮小を決断、自分に対する「ご苦労さん(5963)」という気持ちも込めて、59歳の6月3日に引退することを宣言したのでした。
しかし、それまで仕事をいただいていたヒトたちからは「自分だけ引退するなんて!一緒に仕事してきた俺たちは?」とブーイングの嵐。「そうか、それなら身の丈に合った極細会社を」ともう一社立ち上げたのがミクル・プランニングです。そんな経緯から、私の個人事務所のような会社、と説明した方がわかりやすいかもしれません。実際に今まで築いたご縁で“ヒトとヒトありき”の仕事創造が弊社の持ち前です。
私が生まれ育ったのは鳥取県米子市。出雲富士と呼ばれ、西日本を代表する秀峰、大山(ダイセン)があり、幼い頃から山や海、自然が身近にありました。
高校卒業後は芸大受験に失敗し、早大に進学するも中退、さまざまな仕事を経験しながらフリーのフォトグラファーになりました。20歳前後の私はとにかく「世界をこの眼で見たい」「世界のありのままを伝えられたら」という想いが強く、なんとかして海外に行くことばかり考えていました。
その後TBSに中途採用され、撮影部を経て、当時はまだ“はしり”だった海外取材番組のディレクターに抜擢され、地中海担当として当時日本人はあまり訪れないようなリゾートから秘境の地まで、ずいぶんさまざまな場所を巡りました。
これからも、「旅は精神の若がえりの泉だ」を座右の銘にライフワークの旅を続けます。国内はもちろんですが、海外志向も旺盛で、近年は自分の原風景である出雲富士にちなんで「世界の富士を訪ねる旅」をテーマに、南極をはじめ、たくさんの地域を巡っています。
ベスト3は、イタリア・シチリア島のエトナ山、大西洋・アゾレアス諸島のピコ山、ニュージーランドの最高峰アオラキです。好きな町は世界に数限りないですが、ロナウド選手の出身地ポルトガル・マデイラ諸島にある都市フンシャルを挙げておきます。
今後の活動は、前出の通り、社会・地域貢献活動と活性化に関するものです。ローカルとグローバル、両方の視点を兼ね備えながら、海外・国内、特に地方の若い起業家・経営者たちが互いにコミュニケーションが取れる環境づくりをお手伝いしたいですね。
私自身これまでの人生を振り返ると、ここまでやってこられたのは「ヒトとヒトとのご縁に恵まれた」の一言に尽きます。数々のヒトとの出会いによって自分が形成され、育てられて今日までの自分があります。
また、会社の規模を極細にした今でも、40年近く支えててくれている少数のスタッフたちこそ、私にとってかけがえのない存在です。中には学生時代から知っていて、今年50歳になるメンバーもいるんですよ。
そんな今までの自分を培ってくれた多くのヒトたちへ恩をお返しするためにも、今後は少しずつでも特に若いヒトたちの“ヒト繋ぎ”のお手伝いをしていきたいと思っています。
生年月日 | 1944年1月1日 |
---|---|
出身地 | 鳥取県米子市 |
血液型 | O型 |
星座 | 山羊座 |
家族構成 | 妻・長男・長女 |
座右の銘 | 我以外皆我師。犬も歩けば棒に当たる。 |
WAOJE Tokyoに入った経緯 | WAOJE創設メンバー。世界各都市の日本人起業家の繋がり創造。 |
---|---|
WAOJE Tokyoで得たいこと | 新たな時代を切り拓くグローバル志向の若き起業家との出会い。 |
こんな貢献ができます | ヒト繋ぎ。これまでの沢山の出会いからグローバルでも国内でも。 |
こんな人とつながりたい | 豊富な知識・知見を持って世界と国内でチャレンジしている方。 |
興味があること | #起業の種 #地方創成とグローバル #優良人脈 #企業支援 |
1944年鳥取県米子市生まれ。県立米子東高等学校卒、早稲田大学中退。フリーフォトグラファーを経てTBSビジョンにて番組・映像制作、IBMコンベンションのディレクター、プロデューサーを歴任。1981年、株式会社AV Project を創立し、日本コカ・コーラ、トヨタ自動車の国際コンベンションプロデューサーとして活動。以後、資生堂、三菱、JA等々の映像制作、展示会を請け負う。現在、社会・地域貢献活動とグローバル対応のコンサルタント兼プロデューサーとしてミクル・プランニング株式会社の代表を務める。
インタビュー:垣畑 光哉/執筆:大井 麻規子/編集:垣畑 光哉
100年続く鍛冶屋の技術で宇宙産業へ参入 高い技術をオープンにしてつながることが飛躍の条件
求人広告を通して、 経営課題の解決へと導く。 「個」の成長が「組織」の強さに。
中小企業の海外展開のサポートを金融機関と共にコンサルティングで地域活性化に貢献する
タグ