
アスリートの「思い込み力」が
ファイトネスを生み出した
格闘技×フィットネスで
プログラムを提供し
日本中を元気にする
元・総合格闘家 / Fightness代表
大山 峻護 / Syungo Oyama
格闘技とフィットネスを融合した新しいタイプのトレーニングプログラム「ファイトネス」。このプログラムを広げているのは、PRIDEやK-1 HERO’Sなどで活躍した元総合格闘家の大山峻護だ。格闘技の基礎運動を体感し、楽しみながら、健康な体づくり、くじけないメンタリティを身に付けることを目指している。
高校・大学などの教育機関をはじめ、現役アスリートや芸能人、経営者らの個人トレーニングで依頼されるほか、特に近年は企業の社員研修としてのニーズが高まっている。
「ファイトネスを企業研修として展開し始めたのは、2015年12月に改正労働安全法が施行されたのがきっかけでした。従業員50人以上の事業所でストレスチェック制度、すなわち社員のストレスの度合いを検査する制度が義務化されたのです。その1年前の2014年、僕は引退試合を最後に選手生活にピリオドを打ち、さて何をしようかと模索して、面識ある経営者の方々を訪ね歩いていました。その中で、ストレスを抱えながら毎日働く社会人が多いことを耳にしたんです。『ストレス解消には体を動かすのがいちばんですよ』と言っても、多くの方が『なかなか機会がなくてね』と。『ならば僕がお訪ねして、その機会作りのお手伝いをさせてもらえませんか』と提案したのが始まりでした」
現在、ファイトネスを社員研修に導入したことのある企業は90社以上。名のあるIT会社や大手百貨店、経営コンサルティング会社、不動産グループなど、業種も経営規模も大手・中小を問わず実にさまざまだ。
「すべての企業が福利厚生のジムを持っているわけではないので、会議室や倉庫の一角などでも行えるよう、柔軟に対応できるプログラムになっています。風船を膝蹴りでキャッチし合う、タオルや紐のついたボールを手でブロックするといったゲーム性のあるメニューが中心で、体を動かすことを楽しみながら、知らず知らずのうちに格闘技の基本動作が身に付くように工夫しています。最後は両手にグローブをつけてミット打ちをしてもらうんですが、女性や50代以上の方など、年齢や性別問わずみんな笑顔で気持ちのいい汗を流していただいています」
ファイトネスの開始から2~3年の間に多くの企業に導入されているのは、「ストレス解消」だけでなく、「チームビルディング」や「メンタルタフネス」といった成果にも大きく貢献しているからだという。
「ファイトネスは、会社の部署ごとに10~30人くらいの規模で行われることも多いんですが、『同じ職場で働く仲間と一緒に体を動かす機会を持てて、結束力が高まった』という声をよくいただきます。また、体を動かすことに消極的だった方からも、『アスリートのトレーニングを体感することで、自分には無理と思っていたことに挑戦するメンタルが鍛えられた』と評価してくださる方もたくさんいらっしゃいます。それこそがファイトネスの目指すところ。楽しみながら心と体を同時に鍛えることを目標としています」
大山が格闘技の道に入ったのは、幼い頃からの憧れだったウルトラマンやジャッキー・チェンのようになりたいと思ったからだった。5歳から柔道を習い、「平成の三四郎」と呼ばれたオリンピック金メダリスト・古賀稔彦を目指して全寮制の講道学舎に入門。
2000年1月には「PRIDE GP決勝大会」で桜庭和志がグレイシー一族最強と言われたホイス・グレイシーと戦った試合を観戦し、桜庭選手という新たな憧れの対象を得て総合格闘家の道へ進むことになる。
「実際のところ、僕と桜庭さんの間には、センスや才能、実績など、どれをとっても大きな隔たりがあるはずなんですが、『自分には無理』と尻込みするのではなく、『目標に近づくためには何が必要か』と考えていました。ある種の思い込み、妄想に近いことかもしれませんが、そのときの僕には、雲の上の高みに向かって、ひたすら突き進んでいくことしか頭にありませんでした」
大山は、そうしたアスリート特有のメンタリティを「思い込み力」と呼ぶ。その力は2001年2月、野外の金網の中で行われたアメリカの『King of the Cage』でのデビュー戦で早くも発揮された。開始17秒、カウンターの右フックで相手をKOした試合運びは、試合前に思い描いたイメージ通りのものだったという。
もちろん、すべての試合がイメージ通りだったわけではない。PRIDEデビュー後は2つの試合で敗退し、苦いスタートを切ることに。それだけでなく、右目の網膜剥離という、格闘家として致命的なケガを負って長期欠場を強いられることになってしまったのだ。
手術を終え、身体を動かせるようになるまで半年、PRIDEのリングに戻るには約1年かかった。この復帰戦での対戦相手は、グレイシー一族のヘンゾ・グレイシーだった。
「苦しいときの僕を支えてくれた仲間やファンの方たちのために、どうしても勝ちたかった。ところがこの『勝たなければ』という気持ちが上すべりして、自分らしい試合ができなかった。どうにか判定勝ちしたものの、僕の消極的な姿勢にブーイングが飛び、試合後も多くの批判を浴びることになってしまったんです」
このときの辛い経験から、大山はどんな試合でも相手に真っ向から勝負するプレイスタイルを追い求めることになる。
PRIDEからK-1 HERO’Sに活動の場を移して、1年目の2005年春のこと。メンタルトレーナーの山家正尚氏から「過去の実績に関係なく、達成したら一番ワクワクすることは何ですか?」と聞かれた。そのとき、大山の頭に浮かんだのは「年末に行われる大会でピーター・アーツと試合をして勝ちたい」。そう告げると、山家氏は「わかりました。そのために一緒に頑張りましょう」とうなずいた。それからは、そのビジョンが常に頭に浮かぶようになり、絶えずワクワクしていた。
根拠があったわけではない。それどころか、自分よりも格上のピーター・アーツと戦える可能性は、限りなく低かった。だが、毎朝のランニングで彼との試合のことをイメージすると、身体中に力がみなぎっていくのを感じた。
試合の1カ月前に発表されたピーター・アーツの対戦相手に大山の名前はなかったが、それでワクワク感がなくなることはなく、そのまま沖縄で合宿して試合のためのコンディション作りに励んだ。
「マッチメーカーから電話がかかってきたのは、試合の9日前のことでした。『ピーター・アーツの対戦相手が試合に出られなくなった。大山くん、代わりに出場してくれないか』と言われ、春から7カ月もの間、一心に描き続けてきたイメージを形にするときがついにやってきたと知りました。そして、その試合で足関節技を決め、観戦席からの大声援を受けてセコンドの仲間と抱き合うところまで、すべてがイメージ通りに運んだのです」
非常に濃密な時間を過ごした現役時代だったため、引退後は心にポッカリと穴があいたような喪失感があった。
思えば、子どもの頃から憧れのヒーローになることを目標に突き進んできた。その目標を失い、何をすればいいのか、まったくわからなくなってしまったのだ。しかも、現役時代の大山の成績は14勝19敗。決して満足のいく結果ではなかった。
「自分は、ヒーローにはなれなかった」。そんな思いを強くしていたある日、かつてのファンから「大山選手のプレイスタイルが好きだった。強い相手にもひるまず、真っ向勝負を挑んでいく大山選手の姿に勇気をもらった」という声を聞く機会が増えた。現役時代には夢中で耳に入ってこなかった、そんなファンの声が引退後の大山を励ましたのだ。
もしかしたら、多くの人に勇気と感動を与えるヒーローの存在に、少しは自分も近づけていたのかもしれない。そして、アスリートとして経験してきたことを活かせば、自分は現役時代以上に輝く存在になれるに違いない。こうして蘇ったアスリートの「思い込み力」が、ファイトネスの事業を推進してきた。
「ファイトネスを通じて、日本中の人に元気になってもらいたい。それと同時に、僕と同じように引退したアスリートのセカンドキャリアを支える場として発展させていきたい。アスリートとして培った経験は、世の中に絶対に必要とされているので、それを伝えていきたいです。そうして、僕のヒーローになるための挑戦は、これからもずっと続くのです」
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現在、ファイトネスでは大山さんだけでなく、元ボクシングチャンピオンなど、そうそうたる元アスリートがトレーナーを務めています。また、最近では現役で活躍中の選手もファイトネスの取り組みに興味を持ち、参加しているとか。「ファイトネスがアスリートと社会を結ぶ場になってくれるとうれしい」と語る大山さんの人柄が、これからも多くの人のつながりを生んでいくことでしょう。
1974年、栃木県生まれ。幼少より柔道を学ぶ一方で、全日本サンボ選手権を4度制すなど、柔道をベースにした確かなグラウンドテクニックには定評がある。
00年に行われた、桜庭和志. VS. ホイス・グレイシーの試合に感銘を受けた。その後に出場したアブダビコンバットを契機にプロに転身。第7回KOTCでは、自身より30キロ以上重いマイク・ボークを右ストレート一撃、僅か17秒で倒し、プロデビューを飾る。
PRIDE初参戦となった『PRIDE.14』ではヴァンダレイ・シウバと対戦し敗退。さらにその後、網膜剥離で長期の欠場を余儀無くされる。
復帰戦となった『PRIDE.21』では強敵ヘンゾ・グレイシーを判定で破る殊勲を演じ、PRIDE初勝利を挙げる。 その後もハイアン・グレイシー、ダン・へンダーソン、ミルコ・クロコップら強豪と対戦を重ねる。
05年3月に『HERO’S』に初参戦。ヴァレンタイン・オーフレイムを相手にアンクルホールドで一本勝ちを果たすと、その後、カク・ユンソブ、ピーター・アーツ、ホドリゴ・グレイシ、カーロス・ニュートンといった強豪からも勝利を収める。
07年には美輪明宏主演『双頭の鷲』で役者としてデビュー。
2014年引退後、ファイトネスを設立。現在は指導者として活躍している。
インタビュー・編集:垣畑光哉、内藤孝宏/撮影:平山諭
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