
一人ではできないことを、チームで実現させるスイミー経営
フェンシングで得た人間力が
現在の自分をつくっている
アスリートのセカンドキャリアとして
新たな道を示し、
フェンシングに貢献したい。
プルデンシャル生命保険株式会社 千代田第六支社
ライフプランナー(主任)
北村 直之 / Naoyuki Kitamura
オリンピックを目指したアスリートからライフプランナーへ。「誰しもやったことのない、普通の選択肢とは異なるキャリアにチャレンジしてみたかった」と語るのは、プルデンシャル生命保険株式会社でライフプランナーを務める北村直之だ。小学5年生からフェンシングを始め、大学卒業後も愛媛県庁に所属しながら日本代表として活躍していた。そんな人物がなぜ、ライフプランナーに転身をしたのだろうか。
フェンシングの選手に限らず、社会人になってからもスポーツ選手として生活していけるのはひと握りだ。そのため、ほとんどは高校や大学卒業を機に引退し、企業などへの就職を選択する。実業団などに入りサポートが受けられたとしても、現役選手を引退してからのセカンドキャリアの選択肢は非常に少ないのが実情だ。しかし北村がプルデンシャル生命への転職を決めたのは、アスリートのセカンドキャリアとして、「こんな道もあるのだ」という背中を後輩に見せたかったからでもある。
プルデンシャル生命に転職するまでフェンシングに明け暮れる毎日だったため、営業経験ゼロだった。名刺の渡し方さえもわからない状態。営業をスタートし最初の1ヵ月は、まず友人や知人に連絡するも、ほぼすべて断られるという厳しい現実にも直面した。しかし何も知らなかったことこそが北村の武器になった。何も知らないから、所長の言うことすべてを素直に受け入れ、わからないなりに前に進むことができたのだ。
「できないというのは、自分の見えている世界観だけで判断しているからです。ゼロからのスタートなのですから、言われたことはちゃんとやろうと実行しました。さらに、支社内で圧倒的に結果を出している先輩がいたので、その先輩を徹底的に真似しました。フェンシングでもそうですが、うまい人の真似をすることが上達の近道です。その中から、自分なりのやり方を取捨選択していけば良いのです」
フェンシングでの経験も仕事に役立っている。その一つが表情を見ながら、「相手が何を考えているのか」を察することができること。体育会系で上下関係の厳しい世界の中、磨かれた能力だ。集団生活の中で、先輩や後輩がどう思っているのか、どうしたら相手が喜んでくれるのかが見えるようになった。加えて人懐っこい性格で先輩からいじられキャラとして可愛がられた。そうした経験が、現在のライフプランナーにも活きているのだろう。
「スポーツの世界では、同じ成果を出していても好かれる人とそうでない人がいます。理由はわからないけれど、応援したくなる。メディアからも注目される。結果ももちろん大事ですが、その人の魅力や信念に人は共鳴し、感動するから応援したくなるのです。ライフプランナーも同じだと思っています」
スポーツ少年だった北村。もともとはバスケットボールに夢中だったが、ある日母親に半ば強制的にフェンシングのクラブチームに連れて行かれた。それから週に1,2回の練習に参加。負けず嫌いな性格から、やがて「フェンシングで一番をとってみよう」と本格的にのめり込んでいった。
中学3年のときに、全国中学校大会で団体初優勝をし、勝つ喜びを知った。高校でも新潟県の強化指定選手になり、1年生の秋には全国大会で優勝。フェンシングU17の日本代表にも入ることができた。また、勝つために必要な練習ができる環境も自分で創り上げた。高校の部活ではなく私設クラブチームのコーチから指導を受け、新潟県内に2校あるフェンシング部を行き来しながら練習をしていたのだ。このように3者から指導を受けてはいたが、いつ誰に指導を求めるのか、フェンシングとどのように向かい合うかは、自分自身で決めていた。その結果、セルフコントロール能力が身に付き、インターハイでも優勝を果たす。
日本大学では、大学にあるフェンシング部のみで活動。それまで学んできたセルフコントロール能力に加え、団体行動や上下関係、チーム力を学んでいった。4年生になると主将としてチームを統率する立場にまで上りつめた。
「キャプテンの経験でマネジメント能力が磨かれました。何でものめり込むタイプで、皆をどうまとめていくかを考え過ぎて、自分の成績が出ない時期があるほどでした」
そして、大学時代の監督の推薦を受けて愛媛県庁に就職。社会人アスリートとしての道が切り開け、「フェンシング」というレールに乗りすべてがうまくいっていた。まさに絶好調の状態で、見すえる先はオリンピックのみ。出場し、勝ち進んでいく自信が北村にはあった。
意気揚々と2016年のリオデジャネイロオリンピックの代表選手の選考会に臨んだ北村だったが、そこではじめて大きな挫折を知ることとなる。それは、世界の壁だった。どんなに練習をしても勝てない。同じ練習をしているのに、自分だけが結果を出すことができない。なぜだろう。自分の何が悪いのだろうと自問自答をする日々。そのストレスは、円形脱毛症として身体にも表れた。
「後輩に指摘されるまで自分では気付かなかったのです。そのときに、自分がいろいろと思い悩んでいること、フェンシングを楽しめていないことを悟りました。社会人アスリートとして、給料をいただいている以上、結果を出さなければならない。プレッシャーだったのでしょうね。周囲にはいつもと変わらない素振りをしていましたが、本当は誰とも会いたくなかった。何をしていてもつまらないと感じていました」
企業に就職した大学時代の同期たちの、「出張や残業で大変だ」という愚痴話すらも輝いて見え、うらやましかった。自分には、新しい出会いも刺激もない。友人からは「フェンシングで食べていけるなんてうらやましい」と言われ、誰にもわかってもらえず、心の中で葛藤する時期がしばらく続いた。
ナショナルチームでワールドカップを回っていたとき、先輩の日本人選手二人が決勝で対決。優勝した選手はリオデジャネイロオリンピックの出場権を得た。その試合を見ながら、純粋に「すごい」と思う自分がいた。これまでなら、悔しさや「自分だってできる」という想いが先行していたはずなのに、そうではない自分がそこにはいた。
「そのときに、第一線からは退こうと決めました。このまま2020年の東京オリンピックまで続けようと思えば続けられましたが、それは違うと思ったのです」
それからは、自分は何ができるのかをひとり考え続けた。人の相談にはよく乗るが、自分からは相談ができない。泣き言を並べるのは、自分に負けるようでプライドが許さない。答えが見つからずもがき苦しんでいたときに、親友が駆けつけて来てくれた。
「人と触れあう仕事がしたいと話したのですが、そういう仕事はたくさんあると。これだけ頑張ってきたのだから、お前なら何だってできると言ってくれました。嬉しかったですね。それで吹っ切れました」
企業に就職した先輩や後輩に片っ端から連絡をとり、話を聴いた。皆、成功していて楽しそうだった。「自分はこれからどうなっていくのだろう」と思い始めた頃、プルデンシャル生命からの勧誘の話が舞い込んできたのだ。
「プルデンシャル生命で働く人の人間力の高さ」がプルデンシャル生命に魅かれた一番の理由だ。そうした環境なら自分も人として成長できる。そして、かかわるすべての人をHAPPYにできる。「君がいたからよかった」「あなたのそばにいるといいよね、楽しいよね」と言われるような人間になりたい。家族や身内には相談できないことも、「北村君になら話してみよう」と気楽に相談できる存在。保険のみならず、人間力をお客様に“買っていただける”ようなライフプランナーを目指し、その想いを日々伝えている。
そうしてお客様の信頼を得ていきながら、ゆくゆくはフェンシング業界にも恩返しをしていきたいと考えている。
「フェンシングの認知度はまだ低いのが現状。幅広い職種や業界の方と会えるこの仕事なら、私がフェンシングの広告塔にもなれると思います。フェンシングの魅力や面白さをお伝えすることで、応援したいという経営者や企業の方も出てくるかもしれません。将来的には、そうした方々とフェンシング業界の橋渡しもできたらと考えています」
一目でスポーツ経験者だとはわかりましたが、「まさかフェンシングの元日本代表選手とは!」という驚きから始まった取材。選手時代の苦しかったことや、転職時の葛藤や想いも包み隠さず、さらに笑い話に変えながらお話しくださったことに“プロ根性”を感じました。幼少期からたくさんの得難い経験をされてきた北村さんだからこそできる人生のサポート。保険業界の金メダルを掴まれる日も、そう遠くはないことでしょう。
インタビュー、編集/三本夕子、西野愛菜
撮影/森モーリー鷹博
1992年生まれ。小学5年生よりフェンシングを始める。日本大学卒業後、愛媛県庁に所属。2016年開催のリオデジャネイロオリンピックを目指し、日本代表として活躍後、2017年11月にプルデンシャル生命保険株式会社に入社。
フェンシング実績
2010年 全国高校総体(インターハイ)男子エペ 優勝
2014年 全日本団体選手権大会 男子エペ準優勝
2013年~2017年 フェンシング男子エペ日本代表
プルデンシャル生命経歴
2017年11月入社
2019年度MDRT成績資格会員
一人ではできないことを、チームで実現させるスイミー経営
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