
病院を飛び出した理学療法士が鳥取県でつくる「つながり」
世界企業を作りたいという思い
幾多の難関とその乗り越え方とは
株式会社フリープラス
ファウンダー
株式会社客家
代表取締役
須田 健太郎 / Kentaro Suda
11月18日、WAOJE Tokyo(*1)により、株式会社フリープラスのファウンダー、株式会社客家の代表取締役である、須田健太郎氏のオンラインセッションが開催されました。幼少期から起業するまでの経緯、フリープラスでの訪日観光業の立ち上げやティール組織導入、フリープラス退任後についてなどのお話しを伺いました。
*1 一般社団法人WAOJEとは、海外を拠点に活躍する日本人起業家のネットワーク。その東京支部であるWAOJE Tokyoが、今回のオンラインイベントを主催した。
私は1985年にクアラルンプールで生まれ、幼少期はマレーシアとインドネシアで過ごしました。父親が大企業に勤めるサラリーマン、母親が客家系華僑でして。起業したいという思いが当時からあったわけでもなく、また、勉強をする意味が分からない、ただ嫌いだというような子供でした。
そして、小5で大阪へ移住しまして、親から勉強しろと言われてもやはり意識は変わらず。周りに流される形で中学、高校、大学と特に受験勉強も真面目にすることなく、そのまま上がっていきました。
大学でも特に勉強することなく、アルバイトと昔からやっていた陸上競技に明け暮れる日々。このころは本当に楽しかったのですが、通勤電車の社会人や、陸上部の先輩で就活をやっている人は皆、疲れ切った顔をしていて。大人になるってつまらない、このまま大人にならずにのほほんと暮らしたいという、当時は夢もないただの若者でしたね。
ですが、大学在学中に転機が訪れます。成人式とその同窓会の日です。同総会後、寝る前までその興奮が止みませんでした。ですが、布団の中でふと、成人式って来年自分参加できないよなと思いまして。20歳の期間は一度だけ。21歳も22歳の期間も、その後もずっとそうだと。この先何が待っているのだろうかと考えると、60年後には自分は死ぬのだと。そこから「死ぬ」とはなんだ、「生きる」とはなんだと考えるようになりました。
結果、得た結論は、「生きる」とは脳が情報をインプットアウトプットできる状態だと。「死ぬ」とは、バックアップもリカバリーもなく、その脳の情報がなくなってしまうことであると。その結論を得たのち、なぜ人間はわざわざ80年もそんなことするのか疑問に思いました。死のうとは思わないが、それならば今後60年生き続けなければならない。だったら、地球に爪痕残せるぐらいの大きいことがしたいと考えました。
しかし、何がしたいと思った際に自分個人の才能はあくまで凡人であると思いました。陸上といった才能レベルで世界を取ることはできない。その時に、起業という手段を思いついたんです。起業であれば、才能ある人を集めてチームとし、世界企業にできると。それを残して死んでやろうと思いました。
自分が会社をやるなら何をやりたいのか。それを考えた時、昔から乗る機会が多かった飛行機での光景が思い浮かびました。若いCAさんが、心からなりたかったCAという職業に就き、心からお客様を愛しているという気を出している。お客もその気持ちを感じ取って、心同士が反応して幸せが生まれている。そんな光景を見るのが好きだったんです。
世界中のサービス提供者が、このような心持ちでいれば、世界は幸せになる。自分が会社を作るのならこれをやりたい、これを理念として、1万人規模の会社になっても体現されて、自分が死んでも会社と理念は残り、続いていく。こうすれば人類社会に少しでも役に立てると思い、20歳の時にこういう世界企業を作ることを目標としました。
その後は人生が一変。26歳で起業するというマイルストーンを置いて、アクションを取ることにしました。アルバイトをやめ、営業ができるということでNTTのインターンへ行き、やがて大学へ行く意味に疑問を持ちます。26歳で起業するなら大学の卒業資格もいらないと思い、成人式の1年後には大学を辞めて、社会人となっていましたね。
この時、ITエンジニアの派遣業務をやっていましたが、この業務なら自分でもできそうだと思いました。だったら、社長になって、ITエンジニア派遣業務を行いながら、何をしたいか具体的に考えてやろうという結論に達しました。結果、入社後13カ月で会社を退職し、1年でためた300万円で2007年に作った会社、それがフリープラスです。
まずは、時代に残る世界企業をどうやったら作れるかを基準に制度作りを行いました。この時、同じ経営者から『セムラ―イズム』という本を紹介されまして。ブラジルのセムラ―氏が設立した、セムコという会社の制度に関する本で、そこには自分の理想となりうるモデルが載っていました。
社内の人たちは厳しい環境でも、キラキラとして働いている。こんな会社を是非とも作りたいと思いましたが、同時にそれらの手法は1年間勉強したやり方とはあまりにも違う、突拍子もないやり方でして。さすがにいきなりはできないので、いつかやりたいと胸に秘めつつ、最初は普通のやり方で行うことにしました。
1年目は1.8億、2年目は3億見えそうなところまで売り上げ、スタートは順風満帆でした。ですが、ここで試練が訪れます。リーマンショックです。人材業界はズタボロとなり、魚のいない釣り堀で釣りをするような状態。取引先の倒産も相次ぎ、フリープラスもピンチに。こんな2009年1月当時の状況ですぐ参入でき、利益率が高いものは何だと考えました。そこで目を付けたのがSEO事業です。
1日で本を読んで、営業は自社でできる、裏側は外注で何とかなると判断し、実行へ移すことに。すると、2年目は赤字でしたが、3年目は黒字に転換、4年目になるとSEO事業で潤沢な利益が出るほどになりました。
ただ、ここで世界企業になろうとすると、IT分野ではシリコンバレーに負けます。そこで、ニッチな場所でもいいから世界一になれる分野を探し始めました。探すうえで抱いていたコンセプトは2つ。
「人と人が触れ合うことで、喜びを創出する」
「いきなりグローバルに展開できるビジネス」
ここにもう1つ加わることになります。当時、日本は中国にGDPで確実に抜かされると、また、家電業界でも台湾や韓国などに圧倒的に負けていると知り、「モノづくり経済大国日本」のイメージが崩れ去りました。これは日本をどうにかしないといけない、それが日本人の義務であると考え、以下のコンセプトを加えました。
「日本を元気にできるような事業をやらなければならない」
この3つを満たせる事業として、訪日観光業に目を付けました。先進国は通常、観光先進国でもあるのに、日本だけ観光後進国でした。それならば、訪日観光業を独占しようと決意。場所は中国に定めました。
10月に訪日旅行業を始めましたが、いかんせんお金も人もないので、できることといえば旅行を企画し、現地の旅行会社に提案して販売することぐらい。4畳窓なしのオフィスを借り、単身上海の地でテレアポから始めました。もちろん、相手の旅行会社からは、そもそも知らないし、旅行業の経験がない人間に任せられないと言われ、受注なんか取れません。
ですが、突如、北京の旅行会社が夢を応援したいからやらせてほしいと言われました。その会社は、僕の会社の利益は考えるのに、自社の利益は考えないという形で、旅行業の基本から教えてくれて。そして、4ヵ月後に外国人観光客2人の受け入れに成功。情熱や信念は国境の壁を越え、絶対に誰かが応援してくれると強く実感しました。
しかし、翌年、ツアーの仕込みが始まった際に東日本大震災が起こります。インバウンドの受け入れどころではなく、多くの人に撤退するべきだと言われました。しかし、この事業にかける以外道はない。逆にラッキーにとらえるべきだと。インバウンドは絶対これからくるし、競合は止まっていて、新規参入もできない。そのように思い、新卒4人を東南アジアに投入し、開拓を開始しました。
400社ほどを回って、観光客2人だったのが、次年度は500人に。そこから5000人、4万人、8万人と増え、最終的に15万人となりました。会社の売り上げも42億までになりました。
また、直近では地方創生事業に力を入れており、地方自治体にノウハウを提供しています。一番のクライアントとしては別府市ですね。一年で観光客を2500名増やし、特に従来は少なかったオーストラリア人観光客の増加が大きいです。このような形で、65の自治体と取引を行っています。
2018年、大阪や札幌で震度6の地震が起こり、さらに台風で関西国際空港の橋が落ちるという事故が発生しました。これらの影響でこの年は赤字になってしまいまして、来年赤字だと札幌の新規ホテルに向けた借り入れができない、という状態になってしまったんですね。そういうわけで絶対黒字にしなければならない、黒字化する施策を行う上で、中央集権するのか、他の手法で行うのか悩みました。
自分の理想的な組織実現の手法を考えていると、2007年に読んだ『セムラ―イムズ』を思い出しまして。これが今でいうところのティール組織と似たような考えが書かれていました。『セムラ―イムズ』を読んで以降も、セムラ―氏の『奇跡の経営』を読み、来日公演も聞いていたんです。
セムコのように、今までの概念を覆した経営が今ならできる。そう思い、結果的にはティール組織を導入して、多少成長が遅れても、皆がやりたいことを出来る組織になるほうがいいと判断しました。導入後、実際に無駄な作業がなくなって、利益率が過去最高に。企業規模が大きくなると、社長が全権を掌握するのは無理なので、現場に委譲できる権限は委譲したほうがよかったんです。ティールの仕組みを使って運営するのは確かに効果的でした。
しかし、自分としては導入後に気づいた「陰の側面」とでもいうべきところが気になってしまいました。ティールになると全部が自由になってしまうので、どうしても「人間の煩悩」が見えてきてしまったんですね。そのような側面にショックを受けてしまいました。
2007年から12年間、組織構築をやってきましたが、また12年間同じようなことを続けても、望むような組織はできないだろうと思いました。そういうわけで2020年2月にフリープラスを辞めることにしました。ティール組織は自分にとってフリープラスを辞めるきっかけになってしまいましたが、実際に導入しないと見えないことが見えたので、経験出来てよかったと思っています。
今年1月に株式会社客家を設立し、そこからコンサルを行っていたんですが、フリープラスの方がコロナで50億あった売り上げが5億になってしまったんですね。それで、11月上旬に「須田さんが帰らないと金融機関がフリープラスにお金を貸さないと言っている」という通達が入りまして。お金を借りないとコロナ融資もないことから倒産するので、経営陣から帰ってくるよう言われた結果、今はフリープラスのファウンダーCOOとして全事業の権限を持つ形に戻っています。
今のモチベーションとしましては、トップを張れる人を育成するということですね。自分がいたころの幹部陣が全員辞めてしまっており、今の社長はファンドの人間なので事業を見る人がいないと。金融機関からお金を借りるにも、事業の説明をしなければならないので、どうしても事業をトップで管理できる人が必要なんです。
お金の面で困っているので、まずお金の方面でリスケした部分を元に戻すと。そして、さらに利益を得るために、何個か新規事業を立ち上げました。一つはフリープラスの研修内容のプロダクト化ですね。以前から内部で行っていた研修を様々な社長さんが見に来ていたので、その研修内容自体を売っています。
さらに、別のものとしましては、and picturesさんという会社と組んだ事業です。この会社さんは地方で映画を製作し、観光客を呼び入れ、地方を盛り上げていくといった取り組みを行っています。年間60本ほど製作していらっしゃるのですが、事前上映イベントで、旅行方面のコンテンツを作れる人がいないと。地元産業の人たちは腰が重く、動きが遅いので、フリープラスにやってほしいと頼まれたんです。
フリープラスに戻ってきて2週間ほどたちましたが、業績は持ち上がってきています。その間で気づいたことですが、「コロナだから」というので社会全体のエネルギー値が下がっています。しかし、自分は受注もできているし、新たなマーケットも生み出しています。人は前進しようと思えばいくらでも前進できますので、どういう環境下でも前進することを忘れないでほしいです。
執筆・編集:若松 現
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